これ↓領収証です。
で、なんて書いてあるかっちゅうと驚き桃の木山椒の木。

金弐円也
もり蕎麦50個代
明治44年1月6日 更科
岩崎殿

で、当事の岩崎殿といえば現在NHK大河ドラマの準主役の岩崎彌太郎の弟
三菱の岩崎彌之助氏・・・・は明治41年没なのでその御子息小彌太氏か?で、
その駿河台のお屋敷が上の写真の中ほどの大きな屋根の家。
右側のテラスのついたモダンな二階建てが三菱本社。
因みに左上の文字は「大田姫稲荷神社旧社地」であり、現在の聖橋の袂にあたる。

これは現代の地図。
錦町「更科」の位置は創業時から変わらないと言う。
駿河台のお屋敷までの道のりは結構あるし、そのほとんどが坂道。
50個のもり蕎麦の出前は、たいへんな大仕事だってことでしょう。
バイクか自動車で運んだのでしょうかね!?
あっ、いま気がついたけど
明治44年というと、小川町交差点から聖橋へ抜ける本郷通りも聖橋もできていなかった。
この出前予想ラインは大間違いでした。
翌、明治45年に万世橋駅が開業していますから
眼鏡橋と呼ばれた石造りの「万世橋」(よろずよはし)もこの頃に撤去されたのですね。
御茶ノ水の土手の景色もずいぶんと変わったことでしょう。
因みに本郷通りができて、神田川に聖橋が架けられたのは
関東大震災(大正12年1923)後の昭和2年(1927)のこととなります。

神田錦町「更科」の店舗です。

更科の全景 靖国通りの一本南側の「五十通り」に面しています。
以下、当代「神田錦町 更科」4代目店主の堀井市郎さんのコメントです。
当店の屋号「更科」は
出身地の信州更科郡の「更」と領主保科様の「科」の字をいただき
「更科」の暖簾を掲げて江戸麻布永坂に
蕎麦屋を始めたのが寛政元年(1789)のことと言われております。
保科様は三代将軍徳川家光公の異兄弟ながら、
その学識をかわれ幕府に重用されており、
そのご縁で当店も将軍家、天皇家に蕎麦を献上させていただきました。
幕末、保科家の末裔松平容保が新撰組を作り会津白虎隊で最後まで戦いました。
明治維新後に岩崎彌太郎家と保科家が婚姻関係を結ぶにあたり、
御茶ノ水駿河台にあった岩崎家に当店より出前の蕎麦を50人前持って行った話が伝わっています。
明治維新の敵味方が時代を超えて婚姻関係を持ち、
細く長く伝えると言う事で蕎麦を食べていたのでしょうか?
神田錦町「更科」情報はコチラ↓
http://chiyoda-days.jp/feature/sobaya/2005/09/post-8.html
@団長