第2章 真之・子規が学生時代をともに過ごした町 そして、俳句仲間の過ごした町  ~神保町・錦町・小川町~    明治16年松山から上京した秋山真之・正岡子規の2人はこの町で学び、思いっきり遊び、暮らしました。貧乏ながら青春を謳歌した、想い出の地には、東京大学発祥の地碑や開成学園発祥の地碑などがあります。
坂の上の雲マップ ~神保町・錦町・小川町~
旧万世橋駅(広瀬武夫像)
 
東京都千代田区神田須田町1-25 交通博物館跡地
JR秋葉原駅徒歩と御茶ノ水駅の中間あたり、両駅より徒歩5~7分

駅も像も今はありませんが、写真(下↓)左はじに写っている高架橋の赤レンガは現存(写真右→)しています。広瀬武夫は、日露戦争で、沈没しかかった船から退船する時に、いなくなった部下を探し回り被弾戦死しました。秋山真之の海軍兵学校の先輩です。真之とはとても気が合い、親友となりました。
(NHKスペシャルドラマガイド坂の上の雲第一部・千代田のまち事典より)
写真提供:国立国会図書館 

 

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松栄亭
 
千代田区淡路町2-8
地下鉄丸ノ内線淡路町駅・都営新宿線小川町駅A3出口徒歩5分

正岡子規の友人である夏目漱石ゆかりのお店で、創業明治40年の老舗洋食屋です。初代の堀口岩吉氏が帝大で哲学を教えていたラファエル・フォン・ケーベル博士の専属シェフを務めていた当時、ケーベル博士宅を突然訪ねた漱石をもてなすのに、あり合わせの食材で作られたのが、「洋風かきあげ」です。 
(さんぽ帖東京幕末・明治より)
 

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共立学校跡(開成学園発祥の地碑)
 
千代田区神田淡路町2-27淡路公園(再開発中)
地下鉄丸ノ内線淡路町駅・都営新宿線小川町駅A5出口徒歩5分

正岡子規と秋山真之が通っていた大学予備門進学希望者のための予備校がありました。
明治11年、後にダルマ宰相として人気になった高橋是清が初代校長として就任しています。後に私立開成中学校となり、関東大震災で焼けて日暮里に移りました。この地には開成学園発祥の地の碑(現在は工事中のため区保管中)があります。
(千代田まち事典より)
 

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井上眼科病院・ニコライ堂
 
千代田区神田駿河台4-3と4-1-3
JR御茶ノ水駅 聖橋口・地下鉄千代田線新御茶ノ水B1出口より徒歩1分

正岡子規の大学予備門以来の友人である夏目漱石ゆかりの地です。ニコライ堂の北側にある井上眼科病院は明治14年に開業した古い病院です。漱石が24歳のとき、ここで背が高く色白の娘を見そめ、結婚まで望んだという逸話が残っています。
(千代田まち事典より)
写真提供:国立国会図書館
 

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西園寺公望の邸宅跡
 
東京都千代田区神田駿河台三丁目9番三井住友海上ビルあたり
地下鉄丸の内線淡路町駅・千代田線新御茶ノ水駅・小川町駅B3出口

野田宇太郎の『新東京文学散歩』によれば、明治のころ、この屋敷に森鷗外(正岡子規と交友があった)、幸田露伴、国木田独歩、島崎藤村らが招かれて文芸談議に花を咲かせたといいます。「雨声会」と呼ばれたこの集まりは近代文学史を語るうえで見逃すことのできない重要なものです。邸宅跡は中央大学になり、現在は三井住友海上ビルが建っています。
(千代田まち事典より)
 

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東京家政学院
 
千代田区神田小川町一丁目町名由来板あたり
地下鉄丸の内線淡路町駅・千代田線新御茶ノ水駅・小川町駅A6出口

当時の雉子町32番地(現在の小川町1丁目1番地)。小川町一丁目町名由来板にこの町内にあったことが記載されています。
正岡子規の勤めた日本新聞社は、陸羯南が主筆兼社長となって発行しました。これは新聞とはいうものの社会面がなく、論説を主とする硬派の内容でした。子規はその日刊新聞『日本』に「俳話」を連載し、脊椎カリエスを病みながら36歳で亡くなるまで自らの作品を作り続けました。
(千代田まち事典より)
 

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神田警察署
 
東京都千代田区神田錦町2丁目2番地
地下鉄都営新宿線小川町駅B7出口より徒歩6分/都営三田線神保町駅A9出口より徒歩8分

2・26事件で警視庁が制圧された時、非常警備総司令部が神田錦町警察署(現在の神田警察署)に設けられました。
 

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高浜虚子俳誌「ホトトギス」を発行 のまちの記憶保存プレートガイド
 

千代田区神田神保町一丁目4番地 クロサワビル 地下鉄都営新宿線、三田線・半蔵門線A5出口より徒歩5分


正岡子規を慕い、献身的に看病をし、後継者にと望まれた、俳句界の巨匠高浜虚子。ここに住んだ虚子は、松山で発行された「ホトトギス」を引き継ぎ、俳句雑誌として再出発させました。

 

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夏目漱石の碑
 
猿楽町1丁目1−1 お茶の水小学校
JR御茶ノ水橋口・地下鉄神保町駅A5出口より各徒歩5分

現在のお茶の水小学校の前身の錦華小学校に夏目漱石は学びました。成績優秀で飛び級で進級したので、卒業しないまま府立東京中学校に進学しました。現在は記念碑があります。当時の錦華小学校は現在の場所から少し西に行ったところにあったようです。
(千代田まち事典より)
 

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文化学院
 
東京都千代田区神田駿河台2−5
JR御茶ノ水駅 御茶ノ水橋口より徒歩 5 分・ 東京メトロ丸の内線御茶ノ水駅より徒歩 6 分・地下鉄千代田線新御茶ノ水駅 B1 出入り口より徒歩 6 分

正岡子規とは、不仲であったと伝えられる、与謝野鉄幹とその妻晶子は、文化学院の創設に貢献し、そこで教授も務めていたそうです。
(千代田まち事典より)
写真提供:学校法人文化学院
 

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子規・真之下宿先
 
 東京都千代田区西神田1丁目あたり
JR水道橋駅徒歩5分・地下鉄神保町駅より徒歩15分程

秋山真之と正岡子規がともにすごした下宿は、猿楽町の板垣善五郎という表札のかかった二階建ての玄人下宿でした。当時の相場の月4円で部屋代が1円、食費が3円、この部屋代の1円を二人で分担し一人3円50銭になり、50銭節約していました。    
現在(西神田一丁目あたり)、神田女学園や日大経済学部、カトリック神田教会等があります。
(司馬遼太郎「坂の上の雲」より)
写真提供:国会図書館
 

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森鴎外下宿先西周宅跡
 
西神田2-3-11 西神田公園あたり
JR水道橋駅徒歩8分

森鷗外と子規は、子規の日清戦争従軍記者時代に知り合っています。鷗外が第一大学区医学校に通っていた時期、神田小川町政府高官西周宅に寄宿していたことがあります。現在の西神田公園あたりです。
(NHKスペシャルドラマ・ガイド坂の上の雲・千代田まち事典・『西周全集』解説より)


 

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陸軍兵練所跡(講武所跡)・三崎三座跡説明板
 
三崎町一体あたり
JR水道橋駅徒歩2分~10分

江戸幕府の講武所があった場所が明治に入って陸軍兵練所となりましたが、明治23年、三菱社に払い下げられ、三崎三座とよばれる三つ(東京座・三崎座・川上座)の劇場ができました。このうち東京座は歌舞伎座や明治座とならぶ東京五大劇場の一つにも数えられていました。三崎座は女優劇場として学生や文人にもてはやされたといいます。現在はニチレイ水道橋ビル(三崎町3-3-23.)の前に「東京座跡」、日本大学法学部三号館の前(三崎町2-11)に「三崎座跡」、加藤文明社前(三崎町2-15先)に「川上座」、日本大学法学部図書館構内(西神田2-6)に「講武所跡」の説明板があります。
(千代田まち事典より)

 

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東京理科大学発祥の地碑
 
千代田区飯田橋2-1
九段下駅5番出口より徒歩5分

夏目漱石「坊っちゃん」の主人公が学んだ学校が東京物理学校(現在の東京理科大学)です。
明治14年(1881)年に設立された「東京物理学講習所」が 東京理科大の前身です。その後、明治16年(1883)年東京物理学校と改称し、同22年(1889)神田小川町に校舎を取得しました。当時神田には、多くの学校が創設されましたが、理科系の学校は希少でした。維新後の新生日本の科学的発展を担う若者を育てなければという使命感に燃えた東京帝国大学理学部の卒業生たちが共同でこの学校を立ち上げたそうです。
(千代田まち事典より)

 

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共立女子学園
 
東京都千代田区一ツ橋2-2-1 共立女子学園
地下鉄東西線竹橋駅1b出口より徒歩3分・半蔵門線・都営三田線、新宿線神保町駅A8出口より徒歩1分

子規の妹正岡律は、子規の亡くなった翌年、共立女子職業学校(現在の共立女子学園)に入学しました。次いで補習科に進み、卒業後、母校の家政とくに和裁の専門教員となりました。縫い方を教える時に、「これは兄の脚絆です」と教室でみせるなど、事あるごとに兄のことを語ったそうです。ここは、現在の共立女子学園であり、鳩山一郎元首相の母春子が創始者のひとりです。
(司馬遼太郎「ひとびとの跫音」・司馬遼太郎歴史のなかの邂逅・共立女子学園の110年より)
写真提供:共立女子学園
 

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東京大学(開成所・大学南校)発祥の地碑
 
千代田区神田錦町3-28 学士会館
地下鉄都営三田線・新宿線、東京メトロ半蔵門線神保町駅A9出口より徒歩1分、東西線竹橋駅3a出口より徒歩5分

現在、共立女子学園1号館のあるあたりが大学南校跡。文久2年(1862)蕃書調所は洋学調所と改称してここに移り、翌年(1863)には開成所と改め、明治元年(1868)には開成学校、明治2年に大学南校と称しましたが、明治10年(1877)東京大学と改称しました。この付近には外国語学校、高等商業学校(一橋大学の前身)、大学予備校・学習院などがあり、新文化教育の中心でした。
(史跡と観光千代田区より)
 

野球発祥の地碑
 
千代田区神田錦町3-28 学士会館
地下鉄都営三田線・新宿線、東京メトロ半蔵門線神保町駅A9出口より徒歩1分、東西線竹橋駅3a出口より徒歩5分

正岡子規は文学を通じて野球の普及に貢献したことが評価され、没後100年目の2002年に野球殿堂入りを果たしました。1894年(明治27年)にベースボールを「野球(やきゅう)」と訳したのは、第一高等中学校(のちの東大教養学部)の野球部員・中馬庚(ちゅうまかのえ)といわれています。ただ、その前に同じ学校の先輩にあたる子規が、ベースボール好きが高じて「野球(の・ボール)」という雅号を用いています。また、秋山真之は、子規から教えてもらった野球を、海軍兵学校の生徒たちに広めました。
(千代田まち事典・散歩の達人・楠木誠「秋山好古と秋山真之日露戦争を勝利に導いた兄弟より)
 

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一般社団法人 千代田区観光協会