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第4回 神田神社(明神)宮司 大鳥居信史さん

江戸総鎮守として知られる神田明神。
来年は、江戸天下祭と称された神田祭りの年。
神田祭に向け先般、第1回の祭典委員会も開催されました。

そこで神田明神の大鳥居宮司に神田明神と神田祭りについて
たっぷりと伺いました。

まず、宮司の「大鳥居」姓なのですが、やはり、代々の神職の御家柄なのでしょうか?

九州大宰府天満宮が私どもの祖先の家です。大宰府天満宮には大鳥居と小鳥居という家があります。大鳥居家が38代、小鳥居家が42代続いています。菅原道真公の後裔にあたります。両家が太宰府天満宮の宮司・権宮司ということで今日に継承してきました。 江戸期の大鳥居信祐が亀戸天神(東宰府ともいわれていますが)など10社ほどの天神様をお祀りしながら、全国に天神信仰を広めました。天神様の家柄であるということになります。

そうすると、神田神社さんは、湯島天神さんなどにも劣らず受験のときには御利益があ りそうですね。(笑)大鳥居宮司が神田神社さんのほうにいらしたのはいつ頃なのでしょうか。

わたしの父は昭和5年、神田神社の神主となり、戦後、宮司となりました。私は昭和63年に宮司となりました。

神職としてのご経歴は?

昭和37年に大学を卒業。翌年神道学専攻科をでて神職の免許をいただいました。その後つとめたのが明治神宮でした。そこで1年ほど修行をしまして。昭和39年神田神社にまいりました。

その頃から神田神社さん周辺は様変わりされたのでしょうか?

大きく変わっています。東京の東の台地のはずれにあたり、当時は飛鳥山のように鎮守の杜の形態をとっていました。 しかし、大雨や台風などで土砂の流失が相次ぎ、崖地保全のための工事を進めました。鎮守の杜の風情は薄れてしまったかもしれません。 建物も変わりました。江戸期の御神門は関東大震災で消失したのですが、これを昭和50年に再建しました。再建は父の念願でした。 これからは、神社にお参りされる方々が心休まる空間をつくってまいりたいと考えております。近隣の駐車場不足や財政上の理由で境内の一部を駐車場として利用してまいりました。現在では、西側に駐車場をまとめていますが、ゆくゆくは、ここも緑地にしていきたいと思っております。 となりの宮本公園に昭和初期の古民家遠藤家が「神田の家」として再建されます。「神田の家」と隣接した緑地にして、お参りしたみなさまが憩うことのできる場をつくってまいりたいと思っております。

ご神像にも芸術的なものもあり、特色があるように思えるのですが。

恵比寿さまですね。東京芸大の宮田学長先生の作品です。神田にアートをという活動がありましたが、その一環で、こうしたご神像をということになりました。 神田神社には大国さまと恵比寿さまが祀られていますが恵比寿さまのご神像がないので、恵比寿さまをつくらせてくれないかとの話がありました。宮田先生と御祭神のお話をするなかで、神話から浮かび上がった「海の彼方から小さな木の葉にのってきた神様」というイメージで作られたのが、ここの恵比寿さまなのです。

一般論として、神社さんは前例や格式を尊重しているというイメージがあるのですが、そういう意味では斬新な取組みですね。また、神社が芸術家の先生と連携するということはあまり聞いたことがないですが。

新しい中にも、神話を尊重しており、歴史と伝統を踏まえています。芸術家の先生との連携は、当社は早いほうだったのではないでしょうか。 東京芸大とは、神田祭りで「大鯰と要石」の曳き物をつくっていただくなど連携が深まっています。宮田先生の作品を神社で展示するなどといったこともさせていただいています。 11月20日には先生が総理大臣賞を受賞された一連の作品、「陽光」と称するイルカの群れの作品が入ってまいりました。

神田神社さんといえば、やはり神田祭りですね。

宮田先生とのお話も、そもそも、神田祭りを老若男女多くの参加していただける祭りにしたいということでお願いをしたものです。学生を地域の行事や文化的なイベントに参加させることはいいことだろうということで、連携が深まりました。

神社でコンサートなどが催されたことがあるそうですが。

神田祭りでは、以前、芸大邦楽関係のOB・OGのみなさんに江戸時代の「底抜け屋台」の行列を再現していただきました。「底抜け屋台」とは、三味線と長唄・常磐津を奏でて縁者のかたも舞台と一緒に歩くものです。それが、神幸祭の行列に加わっていただいた、そんなこともありました。境内で演奏会もやっていただきました。また、献茶祭のあとに「明神薪能」なども開催されております。もともと、神田神社は江戸の「勧進能」、幕府の許可を得て、いわゆる興行として行った能の走りといわれています。それから、ジャズのコンサートを開いていただいたこともありました。

神田神社からはいろいろな文化が発祥しているということもききました。

ここは、国学発祥の地でもあるのです。京都伏見の国学者荷田春満が、江戸に出て初めて国学の教場を開いたのが神田神社社家の芝崎邸内でした。賀茂真淵もここに学びました。そのゆかりから神田神社境内が江戸における国学の発祥の地とされており、発祥の地の碑もあります。 それから国学者本居宣長の曾孫である本居豊穎が当社の宮司をつとめていました。またそれだけでなく、同じく国学者平田篤胤の曾孫の盛胤が本居豊頴の後を受け神田明神の宮司となりました。当社は、いわゆる「国学の4大人」に深くゆかりがあるのです。 それからお茶の文化。神田神社は江戸千家発祥の地ともいえるところなのです。お茶は公家・武家の文化だったのですが、川上不白が江戸にまいりまして、町人文化としたのが江戸千家。甫喜山という社家に不白が投宿してここではじめて江戸千家の庵「蓮華庵」「花月楼」をこの境内につくりました。ここから発祥してお茶は庶民のたしなみとなったわけです。 京都からの文化が神田神社を経由して江戸市中に普及していったのではないかと思います。祭礼文化もそうですね。京都の文化が江戸の天下祭として神田に定着し普及していった。そしてそれが川越、栃木、鹿沼、佐原など関東へ普及していったのです。そして、それが地方に分散したわけですね。神田神社は文化の発信地であったという気がしてならないですね。 江戸時代の天下祭は「神田祭」と「山王祭」。江戸城内に参内して将軍の上覧をたまわったのですが、その当時は山車祭りだったのですね。神輿を中心に山車が連なったのですが、それが明治・大正となり、都市化が進み電線が張り巡らされるなど街の風景が変わって、高い山車がだせなくなりました。  大正のころ、そして昭和になり山車に代わってお神輿中心の祭礼となってまいりした。現在、氏子町会が108。お神輿は大小合わせて200基近くある。 これだけお神輿を抱えたお社はあまりない。これは各町のお神輿ですね。氏子が氏神様に宮入をする。 その一方で、こちらの神様が氏子の御安泰を願い行列を組んでくまなく巡幸するのが神幸祭。神様にまちの状況をお告げにくるのが宮入神事。 神幸祭は実はしばらく途切れていたのですが昭和27年に復活しました。戦後復興は氏神祭礼文化の復興からというのが当時のまちのみなさまのお考えだったのでしょうね。 古いものをただ継承するだけでなく、その時代に合った新しいものを取り入れていくのがお祭りの文化だろうと思います。それから、かつて天下祭はこんなふうだったよというのを伝える。それは地方にこそ残っている。例えば静岡掛川・横須賀の一本柱の山車。そういうものを招致しました。それから、町田の火消し行列もそう。 相馬の野馬追い。これは御祭神、将門公とのゆかりですが、いわゆる馬術の文化。これも毎回きていいただいている。江戸時代に神田で行われていたけれども今はなくなってしまったもの。そういったものを伝えていきたいと思っています。

少し話題を変えまして、大鳥居宮司のプライベートで神田・千代田区の関わりについてお聞かせいただけますか。

かつて、明神下には風流なところがあり、「育てる」という意味でも利用していました。芸者さんなども日本の文化ともいえますからね。ただ、本当に気を許して仲間内で飲みにいくときなどは、氏子の地域は避けましたね(笑)

氏子のみなさんとお酒を酌み交わしながらの交流はいかがですか?

最近は少し年のせいもあり、回数は少なくなってきましたが(笑)、会合の後など町の方と「ちょっと一杯」というお付き合いはしております。お酒を酌み交わすなかで、和気あいあいと氏子の皆さんと神社との繋がりができるのではないでしょうか。

最後になりますが、宮司が気にいっておられる千代田区の景観はどんなところでしょうか?

まちの中に江戸・東京の風情が残っている、淡路町・須田町界隈の老舗でしょうか。歴史を感じるホッとした空間がありますね。    

さて、来年は神田祭りの年ですね。秋葉原の事件や景気の低迷など少し暗いムードが漂っておりますが、神田祭をきっかけに明るく活気ある世の中になるといいですね。きょうは長時間ありがとうございました。

 

一般社団法人 千代田区観光協会